
新一が家に戻らなくなって、5日目のことだった。
青山でスポンサーと食事をしたあと、二次会の誘いを断り、新一は一人別れて行きつけのバーに入った。
カウンターに座った途端、背後から声をかけられた。
「あれ?工藤さんじゃありません?」
振り向いた先にいたのは鈴木というファッション雑誌の編集長だった。
「お久しぶりですね。どうです?一緒にいかがですか?」
「いえ、残念ですけど次の機会に。今日は仕事なんで…」
「へぇ、鈴木女史を引っ張りだすとは。どんな仕事だか興味がありますね」
この鈴木という編集長は若いがかなりのやり手で、大型の企画を次々打ち立てては売れ行きを倍増させた。
いまでは、彼女の企画なら一枚噛みたいと思っているアパレル関係者は山のようにいる。
「フフッ、工藤さんのところとはちょっと系統が違いますよ。ティーンエイジャー向けの雑誌ですから」
「そうか、異動になられたんでしたね。残念です。うちでもいずれティーンエイジャー向けのブランドを立ち上げますから、その時はぜひ」
「こちらこそ願ってもない話ですわ」
「それじゃあ今日はどなたと?」
「あら、まだ許して貰えないの?」
「えぇ、大いに興味がありますから」
新一はニッコリと笑った。
この笑顔に騙される者は多かった。
この鈴木女史もついつい口が軽くなっていった。
「今度の雑誌でお世話になるショップの人よ」
そう言って鈴木女史はいくつかのショップの名をあげた。
いずれも小さいショップながら、注目されているところだ。
(どうやら、うちと競合するようなところはなさそうだ…)
逆に言えば、それは『KUDO』の弱点と言えるのだ。
(新ブランドの企画を急ぐ必要があるな…)
頭の中で忙しなくスケジュールを組み立てる新一だったが、鈴木女史の口から『H2』の名前が出ると、先程までの笑顔が消えた。
「服部が来てるんですか?」
「あら、お知り合い?」
「えぇ、まぁ」
二人が異母兄弟であることを知る者は少ない。
新一は義弟とは決して認めなかったし、服部も『KUDO』の力を借りようとはしなかったからだ。
「服部をちょっとお借りできますか?」
「えぇ、もちろんよ。なんなら、工藤さんがこちらへ合流して下さってもいいのよ。他の方々もご紹介するわ」
「いえ、ちょっと込み入った話なんで。それに、他の方々には少し不快な話ですから」
そう…と言って、鈴木女史は快く、服部を呼び出してくれた。
個室、といっても完全に閉鎖された部屋ではなく、数本の柱とタペストリーで区切られた一角から服部が姿を現した。
「工藤………」
「ずいぶんと羽振りよくやってるようじゃないか」
笑いもせずに、新一は言った。
「お前がいるって聞いたからな。ちょっとアイサツでもしておこうと思ってね」
「そら、おおきに」
平次も棒読みのように感情の籠っていない、礼を述べた。
「だが、余計なことはしないで貰いたいね」
「なんのことや?」
「蘭のことだよ。ったく、蘭が何も知らないのをいいことにうまく丸め込んだものだな。で、毎日甘い言葉を囁いてるってわけか?」
「そんなんちゃうわ!そっちこそ、どうなんや?全然家に帰らんそうやないか」
「それこそ余計な世話だよ」
新一は煙草に火をつけながら、カウンターの端の方の椅子に腰掛けた。
「これは、俺達夫婦の問題だ」
「どこが夫婦なんや。家にも帰らんで。夫婦やったら、ちっとは彼女の気持ち考えてみぃ!」
信用されてない言うて泣いとったで、と平次から聞くと新一の中に怒りが込み上げてきた。
「そんな話までする仲なのか?お前が蘭に惚れてるのは知ってるけどな、あいにくと蘭は俺の妻だ。人の物に手を出すのは止めてもらおう」
「お断りや!あれじゃ、蘭ちゃんが可哀想や。信用でけんのやったら解放したり」
新一は冷たく、服部を睨み付ける。
「で?解放したら、お前が手に入れるって算段か?ふん、血は争えないっていう訳か」
服部の動きがピタッと止まった。
「どういう意味や?」
「泥棒猫の子供は、所詮泥棒猫って意味だよ」
服部は拳を握りしめた。
「おかんを侮辱すな!!!」
服部の拳が、新一の左頬を殴りつけた。
新一の身体がフロアに放り出される。
近くにいた客が、きゃーっ!と悲鳴をあげた。
何ごとかと、鈴木女史も飛び出してきた。
「どうしたの?」
「なんでもありませんよ」
新一は頬を押さえながら立ち上がった。
「邪魔をしてすみませんでしたね」
「それはいいけど…」
鈴木女史が服部を見ると、まだワナワナと震えている。
これは不味いと思ったのだろう。
機転をきかせて、すぐさま会計をすます。
「さぁ、飲みなおしましょう。近くにいい居酒屋があるのよ」
服部を押し出すようにして、店を出ていく。
最後に、新一に「まかせなさい」とばかりにウインクを残して。
(女史に借りをつくっちまったな。返済が恐そうだ)
新一はカウンター席に座ると、スコッチをダブルで頼んだ。
新一は話もせずに、早いピッチでグラスを空けていく。
7杯目のグラスを空けると、そのままカウンターに突っ伏した。
ちょうどその時、店のドアが開き、入ってきた男がいた。
冷たい感触がして、新一は目を覚ました。
(ここは………?)
自宅のベッドでも、ここ最近寝泊まりしているホテルのベッドでもない。
新一はぐるりと部屋を見渡す。
何体も置かれたスタン。
積み上げられた段ボールの箱。
壁に貼られたデザイン画。
どれもよく見知っているものだった。
「気がついたか?」
それは懐かしい声だった。
「快斗………」
新一は起き上がった。
そこは新一がよく知っている快斗のアトリエだった。
「いつ、戻って来たんだ…?」
「ついさっき。荷物置いて飲みにいったら、新一が潰れてたからここに連れて来た」
見れば確かにドアの横に大きな旅行鞄が置いてある。
快斗は酔い冷ましのコーヒーをカップに入れ、新一に手渡した。
新一は心が震えているのを感じた。
逢いたかった快斗。
夢にまで見る程に、その存在に飢えていた。
その快斗がいま手を伸ばせば届くところにいる。
だが、新一はそれをしなかった。
「蘭ちゃんとやり直すんじゃなかったの?」
快斗はミルクと砂糖をたっぷり入れたカフェオレを飲み干し、そう聞いた。
「笑ってもいいぜ。蘭を大切にしようと思えば思うほど、心は擦れ違う。安らぎを求めたはずなのに、そんなものどこにもない。お前のせいだ!」
自嘲気味に笑いながら新一はそう言った。
「俺のせい?」
「あぁ、お前が俺を狂わせたんだ!なんで俺を抱いたんだよ。遊びならいくらでも抱かれたがってる女がいるじゃないか!」
快斗の顔から表情が消えた。
「新一、俺が遊びでお前を抱いたと思ってるのか?」
「違うのかよ」
「………新一、お前にいいもの見せてやるよ」
手渡されたのは一冊のスケッチブック。
表紙には快斗の字で『SIN』と書いてある。
「俺がお前のイメージで描き溜めていたものだ」
新一は一枚ずつそのデザイン画を見ていった。
そこには快斗らしい自信に溢れた線で、シャープで冷たい、それでいてエレガントなデザインが並んでいた。
「いつかはレディースブランドの『MOON』に並ぶメンズがいるだろ?その時のために描いておいたんだ」
(これが…快斗が俺のイメージでデザインした服………)
新一は気恥ずかしさを感じながらも、一枚一枚丁寧に見ていった。
突然、ぐちゃぐちゃと鉛筆で殴り消した絵がでてきた。
新一はびっくりしたが、何も言わずにページをめくった。
次のページは乱暴に破り取られていた。
さらにページをめくったが、そこから先は白いページが続くだけだった。
「その白いページが俺の気持ちだよ」
「どういう意味…だ?」
「描けないんだよ」
快斗は苦しげに語った。
新一と電話で最後に話したあの日から、一枚も描けないのだと。
「それだけじゃない。『MOON』のデザインも描けないんだ」
「かい…と…」
「新一が俺から離れて行く。それだけ…たったそれだけのことで、このていたらくさ」
新一は訳がわからないとでもいうように、目をぱちくりさせている。
「まだわからないのか?俺が新一を抱いたのは遊びなんかじゃない!新一が必要なんだ!」
かつてこれほど激しく求められたことがあっただろうか。
かつてこれほど激しく誰かを求めたことがあっただろうか。
新一は二人の間にある何かに激しく動揺していた。
この手を取ればラクになれる。
そうとわかっていても新一はその手を拒んだのだ。
「俺は約束したんだ。快斗にはもう逢わないと。そう蘭と約束したんだ!」
出て行こうとする新一の背中に、快斗の切ない声が響いた。
「しんい…ち…」
新一はその場に立ち竦んだ。
「最後にもう一度だけキスさせて…」
振り向いた先に見たものは、一雫の綺麗な涙だった。
新一は思わず駆け寄り、快斗の頬を挟むようにして口づけた。
自分から舌を挿し入れ、快斗の舌を搦め捕った。
快斗も新一を強く抱き寄せると、ネクタイを引き抜きワイシャツのボタンを外した。
新一は抗わなかった。
快斗はそのまま新一をソファに押し倒すと、新一の身体を貧った。
「しんいち…、しんい…ち…」
「あぁ…っ、かいとっ…」
離れるなんてできない。
手放すなんてできない。
お互いにお互いが必要なのだ。
(だから、ゴメン………、蘭…)
押し寄せる快楽の波の中、新一は何度も心の中でそう呟いた。
ようやく快新らしいシーンが…。BACK RED-INDEX NEXT