
蘭は渋谷にいた。
どこでもいい、人がいるところにいたかった。
そして誰も自分を干渉しないところへいきたかった。朝、目覚めると毛布がかけられていた。
蘭の他には、新一しかこの家にはいないのだから、新一がかけてくれたのだろう。
いままでなら、その優しさを嬉しく思っていたが、いまは得体の知れない不快な気持ちがした。
シャワーを浴びて、気分を変えようとした。
だが、身体はさっぱりとしても気分は少しも晴れなかった。
二人のために揃えた二人分の食器。
色違いのタオルやベッドリネン。
新一の選んだ家具。
どの部屋にも、新一の影がちらついていた。
(この家に私の居場所はないんだわ…)
蘭はいたたまれずに家を飛び出した。
だからと言って実家へ戻る気にもなれず、渋谷の街を宛もなく歩いていた。
ショッピングでもすれば気が晴れるかとも思い、デパートに入った。
だが、すぐに出て来てしまった。
一番目立つところに、広いスペースをとる『MOON』の看板を見た途端、蘭は踵を返したのだった。
『MOON』それは、快斗を世に送り出したブランドだった。渋谷の街を少し離れて、松濤へと足を伸ばした。
閑静な住宅街の中にある小さな公園が目に入ると、蘭はその中へと入っていった。
ブランコと小さな砂場だけの小さな公園。
その片隅にあるベンチに蘭は腰掛けた。まだ恋も知らないころから、新一のことが好きだった。
優しくて、綺麗で、頭が良くて、なんでもできる新一はいつでも蘭の憧れだった。
新一に思いを寄せる女性はたくさんいたが、新一はいつでも蘭だけを特別に扱ってくれていた。
蘭にはそれが嬉しかった。
プロポーズされた時は天にも昇るような幸福感で満たされていた。
蘭には新一しか見えなかった。
新一が蘭の全てだった。
誰よりも新一を理解している。
そう、信じていた。
あの光景を見るまでは。
男と抱き合って、唇を重ねる新一の姿を見るまでは。
それは、蘭の世界が崩壊する瞬間だった。
(信じられない。信じられないよ…。新一、どうして…?)
誰もいない公園で、蘭は静かに涙を流した。結局、気分が晴れないまま蘭は家に戻った。
「おかえり、蘭」
まだ日も暮れていない時刻だと言うのに、新一が戻っていた。
なにも心の準備がなかった蘭は無言で新一の横を通りすぎようとした。
だが、新一に腕を掴まれ引き戻された。
「いやっ!放して!」
「蘭、話がしたいんだ。このままでいても仕方ないだろ?」
確かに、新一の言う通りだった。
今日一日だけでも、辛い思いでいっぱいだった。
新一の影がちらつくだけで、胸が苦しかった。
ここで逃げてしまったら、こんな思いをいつまで続ければいいのかわからない。
蘭は意を決して、新一に従った。リビングのソファに座ったものの、気まずい沈黙が流れた。
「蘭…」
「新一…」
気まずいまま、同時にお互いの名を呼ぶ。
「あ、ごめん。なに?」
「いいの、新一から言って…」
「あ、うん。俺は…蘭のこと、とても大切に思ってる」
「……………う…そ」
「嘘じゃない」
「じゃあ…、じゃあどうして私を抱いてくれないの?もう夫婦なのよ?」
「それは………」
新一は唇を噛み、俯いてしまった。
「………新一。新一はホントは男の人の方が好きなの?」
「違う」
「じゃあ、なんで黒羽君と?やっぱり、私より黒羽君の方が好きなんでしょ?」
「そんなんじゃない。快斗とはそんなんじゃ…」
恋愛という言葉で快斗との関係を括られたくはなかった。
二人の間には、そんな甘い関係はなかった。
じゃあ、なぜ身体を繋ぐのか。
新一にも、それがなぜなのかわからなくなっていた。
「いいわ」
「蘭?」
「新一の言葉、信じる。だから、私とちゃんと夫婦になってね」
「蘭…好きだよ」
だが、その夜入った一本の電話によって、蘭の2度目の初夜は跡形もなく消えたのだった。
まだ、深夜と呼ぶには早すぎる頃。
銀座にある『KUDO』の本社ビルには重役陣を始め多数の管理職が集まっていた。
新一も地下の駐車場にジャガーを止めると、出迎えに出た社員とともに緊急会議が行われているフロアへと向かう。
「どういうことなんだ!」
会議室のドアを開けるなり、新一は怒鳴った。
「申し訳ありません!」
広報室の室長が薄くなった頭をぺこぺこと下げている。
「君が謝って済むようなことじゃない。ことの経緯を説明しろ」
「はい」
新一は会議室の上座にあたる位置にどっかりと腰を下ろした。ことの起こりは夕方に広報室に入った一本の取材申し込みの電話だった。
『黒羽快斗のデザインは盗作だという話があるんですがね、その辺のことについてぜひ彼のコメントを頂戴したいんですよ』
それは日頃交流のあるファッション誌の編集者や業界紙の記者ではなく、いわゆるゴシップ屋といわれるフリーランスの記者からの電話だった。
電話にでた女性が対応に困り、広報室長にかわったのだが、彼はその対応を誤った。
丁重に応対しながらも「事実無根」として取材を断ればいいものの、彼は「事実関係を確認する」と答えてしまった。
そのために、『そういう事実があるから確認するんですね?』と揚げ足をとられたのだ。
広報室長が慌てて否定しても遅かりしであった。
こういうゴシップ屋はそれが事実でなくても、構わないのだ。
ただ、取材して何かしら言質を取れば、それをもとに大きく脚色して記事を書く。
困ったことにそういう新聞や雑誌ほど世の中の反応は大きいのだ。
これが記事になると、他の新聞や雑誌がこぞって取材にやってくる。
その対応を検討するための緊急会議であった。「で?ゴシップ屋はどこでそんなネタを拾ってきたのかわかったのか?」
「はい。もとはと言えば、あるファッション雑誌で服部平次というデザイナーがインタビューの時にそう言ってたようです。ファッション誌では、主旨が違うため記事にはならなかったんですが、その編集者が同僚の編集者にそれを話したのだと思われます。それを耳に挟んだのが例のゴシップ屋ということです」
「そうか」
腕を組みじっと広報室長の話を聞いていた新一が、バンッと音をたてて机に手をついて立ち上がった。
「記者会見などする必要はない。すべての取材は個別に俺が受ける。余計なことは一言も漏らさない様、社員の一人一人にまで厳命しておくように。黒羽氏に対しても俺から説明する。至急、吉田君と連絡を取ってくれ。では、各セクションとも至急対応にかかってくれ。以上」
新一も各セクションからあがってくる書類をチェックするために引き上げようとした時だった。
「工藤常務、実際のところ彼のデザインはどうなんだね?」
ただおろおろとして、約に立たなかった取締役達が新一に聞いてくる。
「どういう意味ですか?」
「つまり、黒羽快斗は本当に盗作してるのかね?」
「どうやら、あなた方の解任を要求した方がいいようですね。この件が落ち着いたら、早速社長に上申させてもらいましょう」
「なっ…」
「自社のデザイナーを信用できないような重役は不要です。ましてやデザイナーの力量を見極めることのできない重役など『KUDO』には必要ない!それでは…」
新一はビシッとそれだけ言い放つと執務室へと向かっていった。
執務室の椅子に深々と腰を落ち着けると、新一は天を仰いで目を閉じた。
(快斗の名誉は俺が守ってみせる。必ず…。ったく…、父さんもやっかいな火種を作ってくれたもんだ…)
服部平次。
それは、新一と血を分けた腹違いの弟だった。
危なくノーマルに走るところでした(笑)。次回はいよいよ服部君登場かな?いえ、その前に…ね。 BACK RED-INDEX NEXT