
- 「話ってなに?」
青子の作った肉ジャガでお腹を満たしゴロンと横になっていた快斗に、食後のお茶を差し出しながら青子は聞いた。
快斗はお茶受けの煎餅を頬張り、熱いお茶を口にした。- 「青子、離婚しよーぜ」
全くと言っていい程、深刻な口調を含んでいなかった快斗の言葉に、青子はきょとんとしたあとケラケラと笑いだした。
「やだぁ快斗、変な冗談やめてよね」
快斗がニッコリと笑ったので、青子は内心ホッとしていた。
この5年の間に、快斗が帰ってきたのは数えるほどしかない。
特定の女性と付き合っている様子ではなかったし、家に帰ってこなくてもお金はいれてくれていたから困ることはなかった。
帰ってこない快斗をただ待つだけの日々が辛くないと言えば嘘になる。
だけど、快斗が帰る場所はここしかないと思えばこそ、いつ帰ってきてもいいようにしておくことが自分の役目なのだと、青子は信じていた。
快斗にとっては、そういうところこそが迷惑だった。
「冗談……なんかじゃないよ」
相変わらず、ニコニコとしている快斗には深刻な様子などない。
「な……、なんでよ!快斗はこれから父親になるんだよ?」
「俺の知ったことじゃないよ。認知が必要ならしてやるし、金が必要なら出すけど、俺は父親にはなれないよ」
「知ったことじゃない……って、だって正真正銘快斗の子だよ!青子、浮気なんてしないもん!」
青子は涙ぐみながら快斗に訴えた。
「俺の子じゃないなんて言ってないよ。覚えはあるしさ。けど、俺は父親にはなれない。父親って、血が繋がってるから父親って訳じゃないだろ?」
「なに…それ……?どういう意味……?」
「血の繋がりだけで父親を決めたら、子供が不幸になるよ。子供の父親に相応しい人が父親になればいいんだ」
快斗の頭の中には、新一から聞いた服部の境遇が渦巻いていた。
新一は言っていた。
服部はある意味、幸せなのだと。
なさぬ仲とはいえ、いい父親にめぐり合えたのだから。
それに引き換え自分は血の繋がりだけの関係で、父親らしいことなど何もしてもらったことはない。
世間は立派な父親で羨ましいというが、自分は一度も良かったと思ったことがないとも。
快斗にはどちらもわからなかった。
自分には父親がいないから。
幼い頃の亡くなった父親との思い出は色褪せた写真の笑顔だけで、いまの自分を助けてはくれなかった。
快斗が父親になれない、というのには父親を知らないということもあった。
「そんなの変だよぉ〜」
青子は涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭いもせずに快斗に訴えた。
だが、快斗はニッコリ笑うと、青子にとっては残酷な言葉を吐いた。
「青子がなんて言おうと、もう決めたんだ。ここにはもう帰らない。明日、荷物を持ってでるよ。ま、荷物なんてほとんどないけどね」
「快斗ぉ〜、やだよ〜!お願い!ね、快斗。考え直して!かいとぉ〜っ!」
泣いて、喚いて、それで快斗が考え直してくれるなら……。
青子は、快斗に縋り付いてワンワン泣き叫んだ。
快斗はそんな青子の頭を優しく撫でた。
まるで駄々をこねる子供を宥めるかのように。
「ホラ、青子。そんなに泣いたらお腹の子に笑われるぞ。さ、もう、寝ようぜ」
「だってぇ〜」
「夜更かしはお腹の子によくないんだろ?」
「そりゃ、そうだけど……」
「青子、元気な子を産めよ」
子供ができて喜んでいる青子が元気に子供を産めればいい。
そのために自分にできることは、してやりたいと思う。
矛盾しているようではあるが、それは快斗の本心だった。
「う…ん……」
青子は、快斗が少なくとも結論を先送りにしてくれたのだと思い、まだ溢れる涙を拭った。
そうではなかったのだと青子が知ったのは、翌朝空っぽの布団とテーブルの上に置かれた結婚指輪を見た時だった。
快斗は、ほとんど帰ることのなかった青子との新居を後にすると、不動産屋へと電話を入れた。
30分後に物件の前で、という約束を取り付け、快斗はタクシーを拾った。
行き着いたのは新一が蘭との新居として用意した家だった。
昨日、ここを訪れたときに看板に書いてあった不動産屋の連絡先を控えておいたのだ。
不動産屋に鍵を開けてもらい中へ入る。
場所は知っていたが、快斗はこの家に入ったことはなかった。
ここは、新一が理想を形にしようとした場所だったから。
新一の理想の中に快斗はいなかったから。
自分との関係を続けていても、新一はその理想を捨て去ろうとはしなかった。
それなのに、なぜこんな急に新一は全てを捨て去って消えてしまったのだろう。
家具がほとんど残されている部屋を見て、快斗は新一に何があったのかを考えていた。
会社も辞め、あんなに拘っていた家庭も捨て、一体何をしているのだろう。
ぼんやりと家の中を見て歩く快斗を不信気に見た不動産屋がおそるおそる声をかけた。
「あ、あの〜〜〜、どうでしょうかねぇ?」
「え?あ、うん。気に入ったよ。買いたいんだけどどうすればいい?」
「あ、ありがとうございます。それじゃあ、さっそく事務所のほうで手続きを……」
不動産屋の車で事務所に行き、その場で売買契約を結んだ。
売主の名前は工藤新一と聞かされたが、連絡先などは全権を委任されているということで明かされなかった。
不都合があれば、不動産屋が間に立つのだろう。
アパレルなどには興味のなさそうな不動産屋は、快斗の名を聞いても工藤新一との関係に気付くことはなかった。
「入居はいつできる?」
「契約はもう成立してますから、すぐにでもできますよ。これが鍵です」
快斗は鍵を受け取ると、アトリエに電話をして今日は顔を出さないことを伝えた。
快斗は、仮眠用のアパートも引き払い、僅かな荷物を持って、その日のうちに新一が売った家に住むことになったのだった。
置いてある家具から、そこが書斎だったことがわかる部屋に快斗は入った。
壁一面に作られた書棚には、本は入っていない。
だが、新一が使っていただろうデスクと椅子はそのまま残されていた。
快斗は、今夜はここで過ごすことにした。
デスクの上にはグラスが2つ。
快斗と新一の分だ。
もちろん、新一の好きなバランタインの17年物で。
快斗はこの家で新一が帰る日を待つことにしたのだ。
快斗は手にしたグラスをテーブルの上に置いてあるグラスに軽く合わせた。
チンとクリスタルのグラスが鈴のような音色を立てる。
「新一……。俺はいつまでも新一を待ってるよ。だから、帰っておいでよ。ここで一緒に暮らそう?
俺が新一の家族になるよ」
グラスの中で、氷がカランと音を立てた。
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