
一夜が明けても、新一は魂が抜けたようにソファに座っていた。
起きてはいるのだ。
でも、目はうつろになって、何も見てはいなかった。
おそらく、音も聞こえてはいないのだろう。
何度か蘭が書斎に入っては、声を掛けたり、コーヒーを出したりしていた。
だが、新一は身じろぎ一つしなかった。
蘭は『KUDO』へ新一が欠勤する旨を電話すると、今度は『H2』へ電話した。
「ごめんね。勝手なことしちゃって」
「店の方はかまへんけど。そやけど、アイツは蘭ちゃんを裏切っとるんやで?」
「でも、いまの新一を放っておくのは心配なのよ。だって、あんな新一……」
「ええわ。そないに優しいとこも惚れとるんやし」
「ごめんね」
「ええって。愛しとるよ」
「……ありがとう」
昼過ぎになって、パタンと書斎のドアが閉まる音が聞こえた。
続いてバスルームからシャワーを使う音が聞こえて来る。
蘭は何も言わずに、リビングでファッション誌を眺めていた。
「蘭、ちょっといいか?」
さっぱりと身支度を整えた新一がリビングへと入ってきた。
だが、その瞳にはあの強い輝きはなく、蘭は眉を顰るのだった。
L字型に並べたソファの一人掛けの椅子に座り、新一はじっと蘭を見つめていた。
「蘭、服部が好きか?」
蘭はなんと言えばいいか少し悩んで、やがて小さく答えた。
「……うん」
「そうか……」
新一もそれしか言わなかった。
沈黙のまま、ゆっくりと時が過ぎていく。
やがて、新一が重い口を開いた。
「蘭、離婚しよう」
「……………」
今度こそ蘭は何も言えなくなった。
決してそれを望んでいたわけではなかったのだ。
ただ、蘭は愛されたかったのだ。
離婚という二文字に、喜びも悲しみも感じることはなかった。
「蘭……?」
蘭が何も言わないことに、新一は首を傾げた。
「お金のことなら心配するな。慰謝料は出すから」
「違うの。ただ…これっきりになっちゃうのかなって思っただけ」
自分の気持ちを上手く表現出来ず、蘭はありきたりのことを言った。
「そんな訳ないだろ。蘭は永遠に俺の家族だよ」
それは新一の本当の気持ちだった。
ただ役割が違ったのだ。
「蘭、服部と幸せになれよ」
それは新一の心からの願いであった。
姉か妹が嫁ぐ時のような。
それこそが蘭の位置だったのだ。
新一がそれに気付かなかったために、蘭を辛い目に合わせてしまったのだ。
「新一も黒羽君と幸せにね」
蘭の言葉に、新一は力無く頭を振った。
「快斗とも別離れるよ。今度こそ……な」
蘭は目を瞠った。
どうしても必要なのだ。
そう言っていたのではなかったのか。
それは蘭には辛いことではあったけど、必要というのが単に恋愛感情だけのことではないと理解したから……いや、理解したかったからこそ耐えたのだ。
なぜ、いまになって新一がそんなことを言いだしたのか。
蘭には、新一の真意がわからなかった。
蘭の気持ちを読んだかのように、新一はポツリポツリと話始めた。
「快斗……さ、父親になるんだよ、もうすぐ。アイツ、女癖悪くて、ほとんど家帰らねぇのにな……」
苦しげな笑顔が痛々しい。
「でも、新一には黒羽君が必要なんでしょ?」
「………いまさらだけどさ、快斗にも家族が……家庭があるんだって気付いた。それに……」
新一の言葉が途切れた。
なにかを言い澱んでいる。
「やっぱマズイだろ。子供のためにもさ。男の・・・愛人てのは」
絞りだすような声で吐き出された言葉で、蘭は新一の昨夜のらしくない素行の訳を理解した。
新一は怯えていたのだ。
かつて新一が放った『侮蔑』という感情の影に襲われることを。
そして新一はそれから逃れるために別れようとしているのだ。
「黒羽君は何て?」
蘭はできるだけ淡々と聞いた。
「快斗には何も言ってない。言えないんだ……」
「新一……」
「快斗の顔を見れば、触れたくなる。快斗の声を聞けば逢いたくなる。だから、快斗の前から消える」
「消える……って、仕事ではそうはいかないんじゃない?」
「仕事もやめる」
きっぱりとそう言い切った新一に蘭は驚いた。
新一は現社長の息子で、次期社長と目されている。
それが親の七光りばかりでないことは、蘭も『KUDO』にいたことがあるから良く知っていた。
そればかりでない。
快斗のことを抜いても、新一が自分の仕事に誇りを持っていることも、蘭は良く知っていた。
「辞めるって……新一は次期社長って言われてるのに?」
「いいんだ。ちょっと父さんとは考え方に隔たりがあるみたいだし……」
大阪のプロジェクトのことは、詳しく話していなかったので、あえて説明をすることはしなかった。
「なら……、辞めてどうするの?まぁ、あなたなら、どこからでも引き合いがありそうだけど……」
「それは無理だろ」
この場合『KUDO』の名前が返って新一の行く手を阻む。
どんなに新一が優秀だろうと、工藤優作の息子である彼を引き受けるアパレルメーカーなどありはしないのだ。
「じゃあ……」
「退職金も出るだろうし、しばらくは悠々自適に暮らすよ。この際、海外で暮らすのもいいかな。パリとかミラノとかさ……」
やはり新一はこの世界から、アパレルから離れることはできないのだ。
蘭はそう思った。
でなければ、ニューヨークでもロンドンでも、のんびり暮らすならオーストラリアやスイスだっていい。
パリやミラノ、と出てくるところが新一らしいと蘭は思っていた。
「明日、会社に行って辞表を出すよ。蘭も服部のところへ行くなり、なんなり好きにするといい」
「しんいち……」
そう言うと、新一はまたしても書斎へと引き蘢ったのだった。
新一の辞表は『KUDO』の内部に波紋を呼んだ。
喜んだのは数名の幹部。
多数の社員達は、悲しむよりも前に慌てた。
新一を実質的な『KUDO』のトップと思っていたし、その采配振りは決して間違うことがなかったからだ。
社長であり、父である優作はひたすら沈黙を続けた。
副社長であり、母である有希子は何度も説得のために新一のもとへ足を運んだ。
だが、新一の決意は変わらず、辞表はそのまま受理された。
多忙を理由に―――実際、引き継ぎのための資料作成などでほとんど不眠不休だった―――快斗からの接触を避け、一週間が過ぎた。
快斗のアトリエにほど近いところにある、有名人の子女が多く通うことで知られている高校の正門前に愛車を停めた。
渋谷、原宿、青山というファッションの中心地に徒歩でいける立地条件のせいか、制服のない自由な校風のせいか、はたまた金銭的に恵まれている家庭の子女が多いせいか、流行の先端をいくファッションに身を包んだ生徒達が校門から街中へと消えていく。
「変わってねぇな、こういうところ…」
実は10年ほど前、新一もこの学校に通う生徒の一人であった。一人の少女が新一の愛車を見つけて、駆け寄ってくる。
「新一さん?どうしてここに?」
「ちょっと、哀ちゃんに話があるんだ。いま、いいかな?」
「はい。快斗先生のアトリエに行こうと思ってたんで」
いま、一番聞くのが辛い名前が哀の口から溢れると、新一は眉を顰めた。
哀を乗せたジャガーは、ベイエリアへと向かった。
「新一さん、話って何かしら?」
人工の砂浜を歩きながら、哀は突然の新一の行動を尋ねた。
「謝らなきゃなんねぇんだ……」
新一は立ち止まって、哀に背中を向けたまま言った。
「哀ちゃんのデビューに携われなくなっちまったんだ」
「それは会社命令ってこと?」
「……………」
新一は答えない。
「新一さん……」
「引き継ぎはちゃんとしておくから、デビューに支障はないよ」
「嫌です」
哀はきっぱりと言い放った。
「私、新一さんだから、デビューの話受けたの。快斗先生と新一さんを見てて、私も二人と一緒に自分のブランド作っていきたいって思ったから。新一さんじゃないのなら、デビューなんかしなくてもいいです」
失礼します、という声がして哀が走り去る。
恐らく、このまま快斗のもとへ行くのだろう。
(すまない……。哀ちゃんのデビューは俺の手で実現させたかったよ……)
新一は車に戻ると、そのまま一路成田を目指した。
そして、誰にも行き先を告げることなく、日本を後にした。
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