
「新一、起きて」
「ん………」
「ルームサービス頼んだから、シャワー浴びて来いよ」
久しぶりに二人で迎えた朝だった。
蘭に二人の関係が発覚して以来、どんなに熱い時を過ごしても泊まるということはしていなかった。
熱いシャワーに覚醒を促されながら、新一は蘭のことを考えた。
(なぜ……、なぜ俺は蘭を抱かないんだろう……?)
愛している―――と思う。
大切にしたい―――とも思う。
だが、蘭が一番望んでいることを叶えてやることはできなかった。
笑い声のつきない家。
可愛い妻と、子供が暮らす家。
暖かな安らぎを与えてくれる家。
新一が、ずっと思い描いていた家庭という夢を実現させる第一歩だったはずなのに、蘭を見ても、全くその気になれないのだった。
「快斗」
ブラックコーヒーを飲みながら、目の前でフルーツヨーグルトを流し込むように食べる人物の名を呼んだ。
この風貌で、物凄い甘党なんて詐欺だよなぁ……なんて思いながら。
「ん?」
「哀のことだけどさ……」
言いにくそうに口籠る新一を、じっと見つめる。
「なんかあった?」
「契約書にサインしてもらうの、見合わせようかと思うんだ」
「なんで?」
快斗は極めて淡々と聞き返した。
快斗が『秘蔵っ子』と自ら呼ぶ哀のことだ。
気にならないはずはない。
「このプロジェクトがな………先行き不透明なんだよ。未成年の彼女を会社のゴタゴタに巻き込むわけにはいかねぇし」
「そうだな…」
「俺もどうなるかわかんねぇしな……」
「新一も?」
今度は、眉を顰めて聞き返す。
大手メーカーの御曹司として順風満帆な人生を歩み、27歳という若さで常務を務める彼の将来になんの愁いがあるというのか。
「この俺が引かれたレールの上だけで満足できると思うか?」
瞳に強い光を湛えて、新一はニヤリと笑みを浮かべた。
強い……と快斗は思う。
どこまでも、立ち止まらずに突き進んでいく強さを持った人。
人より恵まれた環境に生まれ、育ち、それを是とせずにいる人。
そんな新一に惹かれた。
いまも、心の内には大きな不安を抱えていることだろう。
快斗にはそれがわかる。
だてにパートナーを組んでいるわけではない。
なのにそれをおくびにも出さず、新たな勝負に出ようというのだ。
「新一の好きにすればいいよ。でも、俺は新一から離れるつもりなんてないよ、公私ともにね」
快斗は満面の笑みを浮かべて、そう言い切った。
東京に戻った新一は、その足ですぐに社長室を訪れた。
新一に与えられた執務室がシンプルで品よく飾られているのに対し、この社長室は絵画や骨董品の数々が所狭しと並べられている。
新一は居心地の悪さを感じながら、猫足のソファに腰を下ろしていた。
「珍しいこともあるもんだな。お前が呼びもしないのに私の所へ来るなんて」
優作はパイプを燻らせながら、新一の目の前にゆったりと腰掛けた。
「どうした?蘭君に子供でもできたか?」
「いえ」
早く孫の顔がみたいという優作に、新一はただ短く答えるしかなかった。
蘭に子供ができる訳がない。
新一は一度として蘭を抱いたことなどないのだから。
あぁ、そういえば……と、新一はあることに思い当たって口元を歪めた。
(服部の子供ならできたかもしれねぇな……。それでも父さんにとっちゃ孫には違いない、か……)
自嘲的な笑みを浮かべる新一に、優作は薄笑いを浮かべて首を傾げた。
「おいおい、まさか外に子供ができたとか言うんじゃないだろうね?」
「それこそまさかですよ。父さんじゃあるまいし」
精一杯の皮肉を込めて新一は優作に言い返した。
しかし、優作はそれをあっさりと黙殺した。
「で、用件はなんだね?私はこれでも結構忙しいんだよ」
「単刀直入に言います。大阪のプロジェクトを即刻中止してください」
新一は優作の顔を正面から見据えていた。
新一の刺すような視線が部屋の中に、ピンと張り詰めるような緊張感を作り上げる。
優作も先程までの薄笑いを引っ込めて、新一を見返した。
「あのプロジェクトは私の夢なんだよ。やめるつもりはないな」
表情もなくきっぱりと優作は言う。
「考えてみたことがあるかい?自分の名前を冠したビルに、自分のブランドがショップを持つ。世界に名だたるブランドと肩を並べて。『KUDO』は世界のブランドになるのだよ。大阪はパリ、ミラノに並ぶファッションの聖地となり、『KUDO』はその頂点に立つんだ。まさにロマンだろう?」
陶酔したようにとつとつと話す優作に、新一は開いた口が塞がらなかった。
「夢を見るのは構いませんが、会社を巻き込むのはやめていただきたい」
「何を言う。私の会社だ。私のブランドだ。夢を実現させるために使って何が悪い」
まったく悪びれた様子のないことに新一は頭を抱えたくなった。
まだ新一が幼かった頃のように従業員が数人しかいなかった頃とは違うのだ。
急速に大きくなりすぎた事業に、当たり前のことが見えなくなっている。
「大体、この件は白鳥君に任せたことだ。新一が口出すことじゃない」
希薄とはいえ、親子という関係がある新一には、これ以上優作を説得するのは困難と悟った。
「わかりました。あくまで、会社のプロジェクトだと言うなら、せめて取締役会の承認ぐらいは得てくださいよ」
「考えておこう」
短く優作が答えると、これ以上の長居は無用と、新一は腰を上げた。
「新一」
優作は立ち去る背中を呼び止めた。
「たまには、うちにも顔を出しなさい。有希子が寂しがっている」
新一は振り返ったが、優作は新一を見てはいなかった。
「考えておきますよ」
無表情な仮面を張り付けて、新一は答えを返すと、静かに扉を閉じた。
翌々日、緊急取締役会が召集された。
散会後、執務室に戻ってきた新一は荒れに荒れていた。
ドアを蹴飛ばして閉め、会議資料を床に叩き付ける。
「ったく!どいつもこいつも!うちの役員どもはどうしてこうボンクラばかり揃ってんだ!!!」
誰が聞いても、自分より10以上は年上の人に対する―――中には、親子以上に歳が離れている役員もいるというのに―――言葉ではない。
「揃いも揃って目先の欲に目が眩みやがって!世の中、そうそう都合良くいくわけねぇんだよ!」
新一がどんと音がしそうな勢いで椅子に座ると、タイミングを見計らったように、秘書がスッとコーヒーを差し出す。
その豊かな香りに、新一はやや冷静さを取り戻した。
「荒れてらっしゃいますわね」
「悪い……」
荒れているからといって、誰彼かまわず当たり散らすほど、新一は愚かではない。
「私でよろしければ、お話を伺いますが?」
「いや、大丈夫だ。なにかあったか?」
「はい、黒羽様より何度かお電話がございました。それからニチメンの白馬さまより、アポを来週月曜にのばして欲しいとのお電話が」
「月曜日の予定は?」
秘書は心得たようにスケジュール帳をめくり、予定を確認していく。
「はい、午前中は部長会が。午後は2時に銀座商工会の方が、4時に繊研新聞の方がお見えになられます」
「商工会の方の予定を変更してもらって」
「はい」
秘書が部屋から出ていくと、新一はデスクの電話の受話器を取った。
ようやく、優作パパ登場。BACK RED-INDEX NEXT