
「蘭、話があるんだ」
新一は帰宅早々、蘭にそう告げると書斎に引きこもった。
(話って……まさか、あのことが……?)
昼間、新一が服部と会ったことを知らない蘭は、よもやその服部自身の口から秘め事が語られたとは、夢にも思っていなかった。
蘭はキッチンでコーヒーを入れると、トレイに乗せて書斎へと運んだ。
コツコツとドアをノックして返事を待つ。
「入れよ」
そっとドアを開けて、書斎へと入った。
新一はソファに座りながら雑誌をめくっていた。
蘭が目の前にコーヒーを置くと、新一は目で座るように言った。
新一がカップを持ち上げ、口をつける。
ゆっくりとソーサーにカップが戻される。
蘭は黙って新一の言葉を待っていた。
「今日、服部に会った」
蘭にとって、それは死刑の宣告にも等しかった。
「アイツが言ったことは本当か?」
新一は服部が何を言ったのかを言わずに、蘭に聞いた。
「……はい」
蘭も何を聞いたのかは聞かずに返事を返した。
「服部が好きなのか?」
そう聞かれて蘭は返事に詰まった。
抱かれる前ならば、即座にノーと返しただろう。
だが、いまはあの逞しい腕に抱かれた時の安心感を欲している自分がいる。
それがイコール服部を好きとなるのか、蘭にはわからなかった。
「わからないの・・・」
蘭は素直に気持ちを吐露した。
「蘭は好きでもない男に身体を許すのか?」
「そんなこと…、どうしてそんなこと……。私はいつだって新一を愛してた。新一に抱いて欲しかった。でも、結局新一は抱いてくれないじゃない。私だって、女なのよ。愛するだけじゃイヤなの。愛されたいの。愛されてるって実感したいの!」
蘭の声は泣いていた。
涙こそ流していないが、蘭の心は泣いていた。
新一はソファの背もたれにどっかりと身体を預けると、大きく溜息をついた。
「服部は、俺に蘭と離婚しろ、と言ってきた」
「………」
「蘭はどうしたいんだ?」
「そんなの……わからない…よ……。私は新一が好き。だけど、新一は私を愛してくれない。でも、服部君は違うの。愛されてる、ってこういうことなんだなぁって実感できる。だけど、それが服部君を好きということになるのかはまだわからないの」
新一は黙って、蘭の言葉を聞いていた。
怒るでもなく。
悲しむでもなく。
ただ、蘭の言葉を聞いていた。
「……俺は、蘭を手放すつもりはない。俺が言いたいのはそれだけだ」
新一は仕事用の椅子に座りなおすと、再び書類に没頭し始めた。
蘭はすっきりしない何かを感じながらも、話は終わったと書類の束をめくる新一を横目に部屋を出ることにした。
「蘭、悪いけど明日5時に起こしてくれ」
書斎のドアを閉めようとした時、そう新一に声をかけられた。
「5時…?随分、早いのね」
「一番の新幹線で大阪に行ってくる。一応、日帰りの予定だけど、泊まることになるかもしれない」
「わかったわ。じゃあ、先に寝るわね」
「あぁ、お休み」
翌朝、新一は新大阪駅に降りると、改札を抜け、タクシーを拾った。
行き先を告げると、シートに凭れかかって、目を閉じた。
大阪に来た目的は、もちろん建設中というアミューズメントビルの視察。
だが、新一はこの件に関しては、プロジェクトが発足していることすら知らされていなかった。
他の重役達にも少し聞き込んではみたが、同じように何も知らないようだった。
社長である父と営業担当の白鳥常務だけで動いているプロジェクトであることに間違いないようだ。
となると、社内にいては情報は得られない。
とにかく一目だけでも自分の目で確かめようと、思い立っての大阪行きだ。
だから、新一が今日大阪に来ていることは、秘書にしか伝えていなかった。
「これは……、どういうことなんだ?」
タクシーを降りて、新一は呆然とした。
新一の眼前にひろがるのは、一面の海だった。
よく見れば確かに『KUDOファッションスクエア(仮称)建設予定地』と書かれた看板はある。
基礎工事のつもりなのだろう。
ショベルカーが何台も砂の山を作っていた。
(こんなところに本気でファッション・アミューズメントを造るつもりか?)
近くにあるのは倉庫ばかり。
まだ新一がここへ来て10分とたっていないのに、ひっきりなしに大型トラックが行き交っている。
(こんな場所に客がくるのか?)
ただボーッと海を見ていても結論はでない。新一は直ぐさま行動を起こした。
新一は目の前の施行主や業者名が書かれている建設工事の案内表示板をデジカメで撮影すると、通りがかりの男性に最寄り駅への道を聞いた。
教えられた通りに歩いたのだが、新一の足でも30分もかかる道程だった。
駅員を捕まえて、大阪府庁への行き方を尋ね、切符を買った。
府庁に着くと、土木部や港湾局、企業局を訪ね、あれこれと質問し、貰える資料を全て貰った。
同様に大阪市役所を訪ね、同じことを聞いた。
そうしてみると、いくつかわかったことがあった。
(どこか…、静かなところで考えをまとめねぇと……)
だが、土地感のない新一に気のきいた場所など浮かぶはずもなく、ホテルに泊まることにした。
その前にと、目についた書店に寄り地図と情報誌やファッション誌、タウン誌を数冊買い込む。
それから、タクシーを拾い、常宿にしているホテルの名前を告げる。
泊まるつもりではなかったから、予約は入れていない。
だが、フロント係は新一を覚えていたため、簡単に部屋を取ることができた。
夕闇に包まれ始めた大阪の街を見渡せる、スウィートルーム。
ベルボーイが一通り説明を終えて部屋を出ると、大きなリビングテーブルに貰ったばかりの資料を広げ始めた。
ファッション・アミューズメントの建設予定地は大阪都市圏再生戦略の一部で大きな柱の一つになっている。
それはそれで問題ではない。
東京でも、女性向けの巨大ファッション・アミューズメントが誕生し、まずまずのスタートを切っている。
しかし、あれは一アパレル企業が起こしたようなものではない。
いくら自治体のバックアップがあるにしても、無謀というものだ。
(ったく!父さんも白鳥常務も何を考えているんだ!)
呆れると同時に怒りを覚えた。
いったい、このプロジェクトを進めるにあたり、いくら金がかかると思っているのだろうか。
金、という言葉に新一はひっかかりを覚えた。
(まさか……、収賄……?)
これだけのプロジェクトが動けば、何十億という単位の金が動くのだろう。
建設、土木業界での収賄騒ぎはまるで日常茶飯事のように起こっている。
それだけ、利益が大きいということだ。
実際にどれほどの金が動くのかは知らないが、アパレル業界では5本の指に入るほどの『KUDO』であっても、ゼネコン相手に立ち回れるだけの底力があるとは思えない。
新一とて、清廉潔白ではないが、収賄ということになれば話は別だ。
明るみになれば、会社が根底から崩れていく。
(もしも、もしもそんなことになれば……)
新一が案じたのは、『KUDO』のことでも、何百人という従業員のことでもなかった。
新一が一から育て上げた『MOON』とこれから動き出そうとしている『EYE』のことだった。
携帯電話の着信音が静寂を打ち破る。
「新一?」
独特のノイズに乗って聞こえてくる、快斗の声。
「快斗?」
「そう、いまどこにいるの?」
「大阪」
「おおさかぁ〜?またなんで?」
素頓狂な快斗の声に、クスッと思わず笑みが溢れる。
「仕事だよ。いろいろあるんだからな、俺だって」
「ふ〜ん。ま、いいや。どこ泊まってんの?」
「浪花ロイヤルホテル」
「さすが、常務!いいとこ泊まるねぇ〜」
くだらないお喋りが先ほどまでの緊迫した雰囲気を和やかなものに変えていく。
「んなんじゃねぇよ。で、用件はなんだ?」
「ん?べっつに〜?ただ、新一の声が聞きたかっただけ」
「バ〜カ!切るぞ!」
「うん、またね〜!」
あっさりと切れた電話を訝し気に見つめたが、目の前に広がる資料の山に再び取り組んだ。
それから15分後。
ピンポーンとチャイムが鳴る。
新一がドアをあけるとそこには快斗が立っていた。
「ハ〜イ!」
夜だというのに、濃い色のサングラスをかけた快斗が軽く手を挙げる。
「快斗!どうしてここに?」
「さっき、新大阪駅に向かう途中のタクシーの中からだったんだ」
聞けば、快斗は大阪でのファッションフェアを見るために、昼から大阪に来ていたらしい。
「そんなに大きなもんじゃないしね、半日あれば十分だったから、昼に大阪入りして、最終までには帰るつもりだったんだ」
昨夜の新一の様子がいつもと違っていたから、もしかすると今夜もアトリエに顔を出すかもしれない。
そう思った快斗は自分の不在を知らせるために、そして東京へ戻ったらどこかで逢おうというつもりで新一に電話したのだった。
だが、その新一が同じ大阪にいて、しかも今夜は泊まりだという。
快斗は新一との電話を切るとすぐさま行き先の変更を申し出たのだった。
快斗は新幹線で駅弁でも買って食べるつもりだったし、新一は食事も忘れて夢中で資料に目を通していた。
ルームサービスでサンドイッチとワインを頼む。
運ばれてきたワインを快斗がグラスに注ぐ。
「にしても、新一が大阪に来るなんて珍しくない?」
確かに、新一が担務するライセンス事業は海外への出張こそ多いが、国内の出張は珍しい。
「ちょっとな、とにかく飲もうぜ」
グラスを受け取り、チンと涼やかな音をさせてグラスを合わせた。新一はざっと、出張の目的を話して聞かせる。
快斗は、時折サンドイッチに手を延ばしながら、新一の話を聞いていた。
「なるほどねぇ〜。俺にはよくわかんねぇけど、ファッションのことなら言えるぜ」
「どんなことだ?」
「ん、『H2』を大阪にっていう社長の判断は正しいよ。どんな思惑が裏に隠されてようとね」
大阪人の感性が、東京で受け入れられる。
ファッションに限らず、そういうことはよくあることだ。
だが、その逆はそこそこヒットはしても、爆発的なものになりにくい。
『KUDO』のファッション・アミューズメントは店鋪の3割は東京発のブランドになる予定だから、その中で『H2』は話題を呼ぶこと間違いないだろう。
「……………」
快斗の言っていることはわかる。
それでも新一は服部が、『H2』が成功を納めていくのを傍観することはできないのだった。
快斗はグラスをテーブルの上に置くと、黙り込んでしまった新一の肩を抱いた。
「せっかく逢えたんだからサ、楽しもうぜ?」
唇を重ねると、新一もグラスを置いて快斗の首に手を回した。
「満足させろよ?」
「もちろん♪」
クスッと笑いあうと、お互いにお互いを奪い合うような激しい口づけを交わした。
キングサイズのベッドの上で、二人の身体が絡み合う。
仕事も、家庭も、全てを忘れて、本能に流されるように、求めあった。浪花に朝が訪れるには、まだまだ十分な時間があった。
快新度はわずかに上昇。次こそ下がります……(こればっかだ……)。BACK RED-INDEX NEXT