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「いってらっしゃい、新一」
「あぁ、戸締まり気をつけろよ」
「わかってるわよ」
「じゃあ、行ってくるよ、蘭」
差し出された鞄を受け取り、見送る彼女の頬にキスをする。
「あ、そうだ。今夜は快斗のアトリエで春物の打ち合わせがあるんだ。遅くなるから先に寝ててくれ」
「わかったわ…」
力なく頷く蘭の――先ほどとは反対側の――頬にキスをした。
「おっと、今日は朝一番に会議なんだ。遅刻したらことだからな。じゃあ行ってくるよ」
愛車の赤いジャガーに乗り込むと、新一は手を振りながらガレージを出ていった。
蘭は、ジャガーが角を曲がって完全に視界から消えるまで、手を振り続けていた。絵に描いたような新婚夫婦の朝の光景である。
だが、蘭の顔には持ち前の明るい表情はなく、沈んでいた。
「どうして…、どうしてなの…?しんい…ち…」
蘭は心の中で毎日、そう叫んでいた。
蘭には人に言えない悩みがあった。
新一の両親にも、自分の両親にも。
蘭は未だに処女だった。
ハワイでの挙式から1ヶ月経つというのに、蘭は一度たりともベッドをともにしたことがなかったのだ。
結婚前も、父・小五郎が、
「ふしだらな真似だけは絶対に許さん!そんなことがあったら、婚約は解消し、慰謝料をもらう!」
と豪語していたため、父親思いの蘭を気づかってか、蘭をそれほどまでに大切に思ってのことか、そういう関係になったことは一度もなかった。
それ以外でなら、新一はとても優しかった。
常に蘭のことを労り、甘い言葉も囁いてくれる。
だからこそ、頑なにベッドを共にしようとしない新一に対し、不満が募るのだった。
「黒羽君のアトリエってことは、どうせケータリングとかよね。それなら…」
一人で過ごす夜の寂しさを紛らわせるため、蘭はキッチンに立つ。
冷蔵庫を開け、材料をテーブルの上へと並べていく。
手早くローストビーフのサンドイッチを作り、カマンベールチーズを適当な大きさに切ってクラッカーに乗せる。
ポットにはパンプキンスープを入れ、新一の好きなボルドーのハーフボトルをバスケットに入れる。
「グラスがプラスチックじゃ味気ないけど、仕方ないわね」
バスケットに布を被せ、蘭はキッチンの灯りを消した。
表通りに出て、タクシーを拾う。
「青山まで」
新居のある麻布から、快斗のアトリエがある青山までは、わずか10分程だった。
アトリエからは少し離れた信号で蘭はタクシーを止めた。
アトリエは快斗がデザインを手掛けるブランド『KID』の本店の2階にあった。
店の前に新一のジャガーが駐車してあるのを見て、蘭はボンネットに触れた。
「熱っ!まだ着いたばかりってとこかしら。よかったぁ。ケータリング頼んじゃってからじゃ、無駄になっちゃうものね」
結婚前は『KUDO』で事務の仕事をしていた蘭であったから、店にシャッターが降りていても困ることはない。
何度か届けものをしに、アトリエを訪れたことがあったし、新一と正式に付き合うようになってからは、婚約者として紹介もしてもらった。
通用口へと回った蘭は、通用口のドアが半開きになっているのに気付いた。
(やだぁ、不用心なんだから…。私には戸締まりしっかりしろ、なんて言ってたのに)
そう思いながらドアノブに手を掛ける。
小さく開かれた隙間から、中の様子を伺う。
灯りのついていない事務所に、窓から月光が差し込んでいる。
その月光に浮かび上がったシルエットは至近距離でお互いの頬を撫で、やがて唇を重ねた。
(な、なに…?新一と…黒羽君…?いま…確かに、キス……してた…)
蘭は音もなく後ずさり、一目散に駆け出した。
(うそよ…、うそよ…。お願い…、誰か…嘘だと…悪い夢だと言って!!!)
蘭はどうやってタクシーを止めたのかも、どうやって家の鍵を開けたのかも覚えていなかった。
深夜になって、灯りの消えた自宅のドアを新一は開けた。
「蘭のやつ…、あれほど戸締まりには注意しろって言ったのに…」
鍵を使うことなく、自宅に入り、リビングの電気をつけた。
コートを脱いでソファの背にかけようとして、そこに蘭が座っているのに気が付いた。
「蘭、起きてたのか?どうした、電気もつけないで…」
蘭は、新一の方を振り返りもせずに立ち上がると、夢遊病者のようにふらふらとリビングを出ていった。
「変なやつ…」
蘭の背中を見送りながら呟くと、新一もシャワーを浴びるためにリビングを出た。
熱いシャワーを浴びながら、指で快斗の名残を掻き出していく。
白い肌に無数に残る紅い所有の印は、いまさっき快斗がつけたものだ。
それを指でなぞりながら、新一は愚痴る。
「ったく、快斗のやつ…。少しは俺の立場ってものを考えろよな。俺は新婚なんだぞ!自分は遊び捲ってるクセによ…」
新一が蘭とベッドを共にすることができない理由はこれだった。
明らかな情事の痕は、単なる浮気相手がつけるには余りにも情熱的すぎた。
だからといって、新一には快斗との関係をやめる気はなかった。
誰にも理解してもらうことはできないだろう。
新一と快斗。
それは、お互いにとって必要不可欠な存在だった。
自分の一部とでも言うべきな。
シルバーグレーのシルクのパジャマとジャカード織のナイトガウンに身を包み、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを一つ取り出すと、リビングのソファに腰掛けた。
缶ビールのプルトップを引き上げようとしたその時、目の前のテーブルに置き去りにされたバスケットが目に入った。
訝し気に思った新一は、手にしていた缶ビールを横に置くと、バスケットにかかった布をそっと持ち上げた。
好物のローストビーフのサンドイッチ。
クラッカーに綺麗に乗せられたカマンベールチーズ。
ポットの蓋を開ければ、パンプキンスープの香りが飛び出してくる。
そして、プラスチックのグラスが添えられた、ボルドーのハーフボトル。
一目見て、それが新一のために用意された夜食だとわかる。
それが、皿ではなく保存容器に入れられ、テーブルの上でなくバスケットに入れられている。
(まさか…蘭…、アトリエに来たのか…?)
先刻の蘭のおかしな様子もそれならば納得がいく。
アトリエのドアを開けると、待切れないとばかりに快斗と唇を貪りあい、その場で一度イかされた。
蘭が見たのが、どんなところかはわからないが、そんな二人を見れば、二人がどういう関係なのかは簡単にわかるだろう。
「まずいな…」
サンドイッチとチーズを冷蔵庫にしまうと、とにかく新一は蘭の様子を見るために、寝室へと向かったのだ。
蘭はすっぽりと頭まで布団を被っていた。
起きているのか。
寝てしまったのか。
新一は出窓に腰掛けると、明るく光る月を眺めた。
「どうしたらいい…?どうしたら…。快斗…!」
絞り出すような声でそう呟くと、すっかり温くなった缶ビールをグッと呷った。
まずは第一話。ここまではほとんど、TVドラマ『RED』の設定をなぞってます、多分…。職場ですから、TVはついてても、音は消してあるので、何喋ってんだか…。 RED-INDEX NEXT