砕かれた硝子

presented by 永瀬




「どうや、可愛いやろう。」
そういって平次は、新一に茶色の子犬を見せた。
「お前、犬なんか飼ってたけ?」
「いや、野良犬。ここ2、3日、パンの残りとかやっとたら懐いてしもうてな。」
その言葉に新一は、ほんの僅か顔を歪め空気を変えたが、次の瞬間には全てを元に戻
した。
平次が気が付かない程、一瞬であった。
「残酷だな。」
感情を何も含まず、淡々と告げる。
「そうか?」
「ああ。無責任だろ。飼えないんなら、最初から餌なんかやるなよ。」
「そう言うたかて、餌貰えるんなら犬かてそっちの方がええんちゃう。それにもとも
と野良犬やから、2、3日餌を貰うてもちゃんとやっていけるやろ。」
その言葉に新一は何も言わず、ただ哀れむような、嫌悪するような目で子犬を見た。


その夜、月も星も雲に隠れ暗闇が全てを飲み込んでいた。
明かり一つ点けられず、血の匂いが立ち込める部屋の中で新一は、ベッドに膝を抱
え、顔を埋めていた。小刻みに震え、押し殺された嗚咽が洩れる。
「名探偵?」
凛とした、耳に心地良い声が新一を包んだ。
「キッド」
顔を上げ窓から入って来た魔術師に右手を縋る様に差し出す。
掠れた声、濡れた瞳。
キッドは、傷付いた小鳥に手を差し伸べるようにその手をとり、慰める様に口付け
る。
そして、華奢な身体を繊細な硝子細工を扱うように己の腕の中へ引き寄せた。
「どうされました?」
素直に身体を預け、キッドの胸に顔を押し付け、声も無く泣く新一。普段の新一しか
知らなければ、驚きに目を見張っただろう。
しかしキッドは、それを当たり前のものとして受け止める。
「何があったんですか?」
柔らかな髪を梳きながら、もう一度問い掛ける。
新一は、消え入りそうな声で言った。
「こいぬがしんだ。ころしたんだ。あのひとが・・・。」
キッドは、部屋の隅へと視線を走らせた。この暗闇では、夜目の利く彼でも見ること
は出来ないが、この部屋に立ち込める血臭には当然気付いていた。
新一はキッドの胸に暫く顔を埋め泣いていた。
が、突然顔を上げた。毅然としながら、何処か退廃的な空気と妖艶な笑みを纏ってい
た。
怜悧で冷たい瞳。
「服部が悪い。一度拾われて、また捨てられる。犬が哀れだろ。」
そう言った新一の声は、纏う空気と同じく弱さや頼りなさを一切含まず、氷と同じ温
度を保っていた。
「それで貴方が殺したのですか?」
しかしキッドはその豹変にも、動じない。
知っているから・・・。
「あの犬が嫌いだったんだよ。見たくなかった。」
「捨てられて、中途半端な優しさだけ与えられて、また捨てられる。人間に翻弄され
て、自己満足を満たすための道具にされて。見たくなかった。自分達に似てるから・・・。」
キッドに聞き取れない程、小さな声で呟いたのは誰であったのか。
「最も俺が犬を殺した理由こそが、一番残酷で自分勝手だけどな。」
今度ははっきりと告げた彼に、後悔や罪悪感は欠片も存在しない。
「それでも・・・、貴方は泣くのですね。その犬の死を悼んで。」
「泣いてるのは、俺じゃない。アイツだ。」
キッドは、静かに目を閉じ悼んだ。新一の在り様こそを。
「見損なったか?俺は優しさやモラルとは無縁だ。正直に言っていいぜ。お前が俺を
愛していないとしても、それはしょうがない事だからな。」
何でもない事の様に問い掛けながら、妖艶な笑みの影に不安が隠れ、期待が迷子に
なっていた。
キッドは、新一の蒼い瞳を見つめそっと唇を寄せた。
「愛しています、勿論貴方も・・・。私の名探偵。」
囁きと共に口付けた。


その日は満月で、怪盗キッドの予告日でもあった。琥珀色の月が何時も以上に明る
く、闇を包み込んでいる様な夜だった。
キッドの逃走経路に、本来決しているはずの無い人影があった。
「こんばんは。」
しかしキッドは、全く警戒せずにその人影に近寄る。
「レディをお待たせてしまうとは・・・。紳士失格ですね。」
「私が勝手に待っていただけですもの。気にすることないわ。」
そういって彼女、灰原哀は、髪を掻きあげた。そして、感情の無い瞳をキッドに向け
る。
「工藤君の事で、貴方に確かめておきたいことがあったの。」
「お聞きしましょう。」
キッドもまた、真剣な目を哀に向けた。誰と相対する時よりも、誠実に真摯に対応す
るべき相手である。
「工藤君は・・・、多重人格ではないの。」
哀がずっと気になっていたこと。はっきりとそれを目の当たりにすることはなかった
けれど、彼女の鋭い観察眼がそれを見抜いた。
「その言葉が、一番端的なのでしょうね。」
そう言ってキッドは、小さく溜息を吐いた。それから、言葉を続ける。彼女がこの事
について知っておくことは、大切な事だと判断して。
「彼の中には別の人格が形成され、それぞれに役割が振り分けられている。幼いまま
泣くことが出来る彼と、全ての闇を背負う彼。それだけではありませんが・・・。」
哀は、かすかに表情を歪めた。
もし他の人間がその事に気付いてもキッドは肯定などしなかった。けれど。
「貴女は、彼を、彼の全てを受け入れられますか?」
普段の彼とは、大きくかけ離れている彼を。残酷さや深い闇を抱える彼を。
「貴方は?彼の全てを受け入れられるの?」
「人格が変っても彼が彼であることに変りはありませんよ。その証拠に彼の瞳は変ら
ない。
だから私は、彼を名探偵と呼ぶのですよ。」
光の中も闇の向こうも全てを見通す蒼い宝石。『名探偵』という言葉は、最大級の敬
意を示すと同時に、常に工藤新一という存在を示す神聖な言葉である。
「私は、貴方と同じ闇に染まった人間よ。そして彼に救われた人間。彼は私の闇を受
け入れてくれた。私が受け入れないはず無いじゃない。信用出来ないなら、それでもいいけれど。」
「いいえ。信用していますよ。貴女は、私の共犯者ですから。」
感情の無い瞳の底に、同じ願いと祈りを隠しているから。
「私も、貴方を信頼しているわ。」
キッドと哀は、真直ぐに視線を交わし笑んだ。
共犯者に対して、絶対的な信頼が成立した瞬間であった。


哀と別れ、キッドが新一の自室へと舞い降りた。想い人は、椅子に座ったまま眠って
いた。
待ちくたびれて眠ってしまったらしい。
キッドは、新一の身体をベッドに運び布団を掛けた。
「私と彼女だけは、貴方の全てを受け入れます。ですから・・・。」
囁きと共に、キッドはその頬に口付けた。そして琥珀色の月に、共犯者と共有する願
いと祈りを捧げた。




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